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鳴くのを忘れた一番鶏

朝一番に時を告げる。
それが一番鶏の役目だろう。
それを忘れて無駄なものを突ついている。
そんな鶏の姿が目に浮かんだ。



今回の地震・津波を発端とする国家的な危機に原子炉から漏洩した放射能があった。この問題で記者会見が幾度となく開かれた。そのひとつを自分は通勤途中のラジオ放送で聞いていた。

ある新聞記者が会見場の質疑応答で若い声を張り上げて下記のような内容のことを言った。

「今までの報告書に謝罪の言葉がなかったのに、今回のものには入っている。これは許され難い事態になってしまったことに対するものなのか? 一線を越えてしまったという事を意味しているのか? それはどういうことなんだ! 今すぐ説明しろ」

正確な言葉ではないが、勢い上記のようなことを高揚して口走る30代前後と思われる記者。枝野官房長官から返答があると「回答になっていない」と息巻く。勢いづいた他の記者たちも便乗して一気呵成に責め立てる。聞いている側としては「何かが違う」という印象を拭いきれない。これがよく言う「KY」というものなのだろうか? 

血気盛んな若いジャーナリストが多少の道を踏み外した行動をとる事はよくあること。若い記者には、事実を明確にして責任の所在を明確にするという意図があったのかもしれない。あたかも国民の代表として事実解明の使命を帯びているかのような言動を彼に感じた。確かに事実関係を明らかにすることは大切かもしれない。

平時ならともかくこの非常事態である。スキャンダルや失態ではない。向けるべき矛先が違うのではなかろうか。何が起こったのかは専門家の分析から情報を得ればいいことだろう。会見では国家として執るべき対応について確認、その意図をつぶさに捉え、わかりやすく伝える事の方が重要だと思う。その過程(あるいは冒頭)で詳しい状況説明や事実関係の説明が必ずあるはずだ。

その時の記者の態度はまさに喧嘩腰。ジャーナリストの一人として、国家の危機に直面した場面で何をやっているのか。避難するにせよ、対策を講じるにせよ、一刻を争う状況で犯人探しや謝罪の言葉を求めている場合ではない。(ただし、計算づくであのような態度をとっていたというなら話は別だが)

TPOという言葉が一時もてはやされたことがあったが、その言葉を久々に思い出した。

なにも若い記者を責めているのではない。ひょっとすると自分も若かったら彼と同じ態度をとっていたかもしれないのだから。きっと彼にいい上司がいたらこんな態度はとらなかったはずだ。未曾有の危機に直面した国家の記者会見。そこに列席するジャーナリストの一人であるのだから、彼には相応の経験や役職があることだろう。何より的外れの質問をするような人材は会社も送り出さないと思う。

しかし、事実は違った。この件に関しては自分のような「おやじ世代」は非常に責任を感じてしまう。自分たちの世代がしっかりしていれば、このような事にはならなかったはずである。それを考えると、自分たちは次の世代のために何かをしてきただろうかと改めて反省させられる。また一方では、ジャーナリズムが本質とずれたところに向かっているという危惧を抱かせる。

とにもかくにも放射能漏れの事態は、国家の未来はもとより人類の未来、世界の人々にも関わる重大な危機である事は間違いない。ジャーナリズムの導く方向によっては展開が大きく変わる事さえ考えられる。目先のことだけでなく大局に立った報道を期待している。

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