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ばあちゃん、あの時間どこいっちゃったんでせうね

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じいちゃんの家には土間があった。

ばあちゃんは竃でご飯を炊いていた。

みんなが使う厠には新聞紙が置いてあった。

モンペを履いたばあちゃんが

竹籠を背負って歩いているのを見た記憶がある。

じいちゃんは倉の二階で蚕を飼っていた。

私は大人たちの目を盗んで、ときどき二階に上がった。

四角い小さな仕切りの中で、蚕が繭を作っていた。

いくつかの繭から白い蛾が抜け出して、

ぶるぶると羽ばたきをしていた。

でも、彼らは決して飛ばない。

うさぎのように赤い目をした

飛べない蛾の顔を

私はじっと見つめた。



昭和40年代の話です。よく泊まりにいった母の実家の思い出です。


家の片隅には薪やら細い枝がたくさん積み上げられていました。風呂を沸かしたり、竃(かまど)の火を起こしたりするのに使っていたような記憶があります。その竃の鉄製の通風口に「イソライトカマド」と刻印されていたのを今でも鮮明に覚えています。


ものすごい原始的な生活をしていたような印象を与えてしまいますが、テレビや自家用車はありましたし、じいちゃんは元気にスーパーカブを乗り回して近所で油を売っていました(本物の油売りではなく、おしゃべりをしに出かけていた)。じつは、ガス台もちゃんとあったのですが、なぜかばあちゃんは竃をよく使っていました。ちなみにお風呂は、私が幼少の頃は五右衛門風呂でした。


洗濯機(脱水機はない)もありましたが、なぜか屋外の蛇口近くには大きな盥(たらい)と大小の洗濯板が置いてあります。四角い固形石鹸を洗い物にこすりつけて、ばあちゃんがごしごしやっていた姿を今でも思い出します。


以上のような、半原始的あるいは半近代的な生活をしていた時代に生を受けて現在に至っているわけです。そんな私は、しばらく前からあることを思ってます。

ばあちゃん、あの時間どうしたんでせうね?

ええ、昔たいへんな思いをして

家事をしていたあの時間ですよ


ばあちゃんの時代に比べて、現代は格段に進歩しています。洗濯機は全自動、おまけに乾燥機まであります。食器を洗う機械まで登場しましたし、強力な掃除機だってあります。


家事に費やされる時間は、昔と今では大幅に違いがあるはず。短縮されて余るはずの時間はいったいどこに行ってしまったのでしょう? 



大正時代の有名な詩人、西條八十。彼の詩に『帽子』という作品があります。森村誠一の小説『人間の証明』で一躍脚光を浴びた詩です。


その詩の一節を思いだすと、上記のようなことを考えてしまう自分。詩が訴えかけてくることとはまったく関係ありませんが、どうしても「帽子」と「時間」が重なってしまうのです。


やっぱりこれも妄想でしょうね

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『帽子』


母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?

ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、

谿底へ落したあの麦稈帽子ですよ。


母さん、あれは好きな帽子でしたよ、

僕はあの時、ずいぶんくやしかつた、

だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。


母さん、あのとき、向ふから若い薬売が来ましたつけね、

紺の脚絆に手甲をした。

そして拾はうとして、ずゐぶん骨折つてくれましたつけね。

けれど、とうとう駄目だつた、

なにしろ深い谿で、それに草が

背たけぐらゐ伸びてゐたんですもの。


母さん、ほんとうにあの帽子どうなつたでせう?

そのとき傍らに咲いてゐた車百合の花は

もうとうに枯れちやつたでせうね、そして、

秋には、灰色の霧があの丘をこめ、

あの帽子の下で毎晩きりぎりすが啼いたかもしれませんよ。


母さん、そして、きっと今頃は、

今夜あたりは、

あの谿間に、静かに雪がつもつてゐるでせう、

昔、つやつや光つた、あの伊太利麦の帽子と、

その裏に僕が書いた

Y・Sという頭文字を

埋めるように、静かに、寂しく。

(2枚の写真は、角川文庫の西條八十詩集と巻頭のカラーページに掲載された『帽子』の一部分です)

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コメント

mushizukiさんこんばんは。

肝油ドロップ。うわぁ、懐かしいです~!

と、被災地ではない場所に住む私がはしゃいだテンションでコメントして良いものか?ずっと悩みあぐねておりましたが、元気を伝えて下さるmushizukiさんに許してもらえるよう元来持つ呑気さが出ないようにするつもりなので度が過ぎたらご指摘下さいね。

まずは…、ふんふん~そうそう~なるほど、と頷くことばかりでどこにコメントを入れるか迷っていましたがThe Cureを知らなかったので、ここにしました。

西條八十の「帽子」、人間の証明は映画もドラマも観たことありで知っていましたが、耳で聞くのと文字で追うのと、こんなにも印象が違うものかと感じ入りました。
旧かなづかいだったりするからでしょうか、不思議なものですね。

前に江戸弁が…と書いた祖母宅には今でもたらいも洗濯板も固形石鹸もありますよ。プラスチック製のたらいと洗濯板は気が付いたらありましたから、昭和40年代のものだと思います。小さいものをちょこっと洗うのには楽らしいです。
今は台所のそばにありますが、以前はお風呂場に置いてあり、家事を全くしない亡き祖父が褌の予洗いをして(ごめんなさい、余談どころか余計な
情報ですね…)いました。

風呂といえば、私は「あ゛~」です、おやじですので!ただご存じの通り低血圧の為どんなにいい湯でも長居は出来ません、残念です。

寒さはやわらいできましたが、東北関東と今日も余震が続いていますね…。お身体に気を付けてください。

投稿: けるとのしんわ | 2011年4月 6日 (水) 22時38分

けるとのしんわさん、こんばんは。

今回改めて西條八十の「帽子」を読んでみたのですが、いろいろ感じるものがありました。

文章的にはこれといった技巧は使われていませんし、淡々と回想を綴っています。しか〜し、ものすごく映像的で時間の流れを感じる作品だと思いました。

薬売りとの出会い、車百合、霧、きりぎりす、雪、いくつかの言葉で季節が移り変わっていきます。雪に埋もれる帽子が最後の数行で表現されていますが、その様子が目に浮かんできます。不思議な作品ですね〜

これを機に、本棚で眠っているいろいろな詩集を読み返してみようかと思ったほどです。きっと若い頃には感じなかったものが感じられるかもしれません。逆に感動できなくなったことにも気づかされるかもしれませんね。

風呂母音の件は恐れ入りました。女性はぜったいあんな声を出さないと決めつけていたので…

とは言っても男のように野太い声ではなく、もっと上品な風呂母音なんでしょうね。

夜も更けてまいりました。明日もあることですので、このへんで失礼つかまつります。では、また〜

投稿: mushizuki | 2011年4月 7日 (木) 01時21分

こんばんは。

昨晩コメントをしようとパソコンにむかっていたらグラグラと、こちらは地震速報に載らないほどの小ささですが、東北関東の余震の大きさに驚きました。何と言ってよいか…。

……

実は、恥ずかしながら西條八十って20歳を過ぎるまで、昭和歌謡の作詞家だと思っていたのです、
映画やドラマで紹介された時も詩集というのは作詩集で、そのうちの一つが「帽子」だろうと…。
ところが、学生時代に図書館で本を探していたら
たまたま詳しい書名は忘れましたがランボーについての本のタイトル下に西條八十の文字が目にとまって。
「え?」と思ったものでした。

お風呂の「あ゛~」ですが、ご期待にそえず…上品からは程遠く文字通りの太い低音です。ハスキーさも若い頃ほどではなくなりましたが、それでも温泉番組で男性リポーターが出す「あ゛~」と一緒です。
多分他のご婦人方は品良く「あぁ、いいお湯ね」でしょう。あまり人間観察をしないのであくまでも想像ですが…。

投稿: けるとのしんわ | 2011年4月 8日 (金) 22時48分

けるとのしんわさん、こんばんは。前回のコメントからだいぶ間があいてしまいました。すみません。

ランボーですか、超有名人ですね。確かフランスの詩人ですよね〜。ところでランボーと西條八十の関係って? ちょっと気になります。

こちらはドイツ表現主義だったのであまり縁がありませんでした。多少は翻訳物に目を通しましたが、ほとんど記憶に残っていません。日本の詩人で中原中也という人がいますけど、彼に興味を持つとランボーや小林秀雄は避けて通れないようです。

ランボーかぁ、懐かしような気がしますが、ほとんど理解できていなかったような…

自分は尾崎豊という人をよく知りませんが、ランボーというとなぜか尾崎豊を思い浮かべてしまうんです。どちらもよく知らないので、なぜ両者がつながるのか自分でも不思議で仕方ありません。

ちなみに、自分は尾崎豊は一切聴きません。カラオケで誰かが歌っているのを聴くぐらいです。

投稿: mushizuki | 2011年4月17日 (日) 23時13分

mushizukiさんこんばんは。

ランボーの作品は読んだことないのです。
図書館で探していたのはワーグナーについての本なんです。
その時ワーグナーより先に目に止まったのがランボー(と言うより西條八十の名前)でして。
「え?」と思ったまま…確認することもなく現在に至っていました(笑)。が、
多分、私が目にしたのは「アルチュール・ランボー研究」って本のはずです、ランボーについての著書はこれのみです。
あと、西條八十は詩人・作詞家・仏文学者と書いてありました。以上は今ウィキペディアで調べました(笑)。でもなぜランボーなんでしょうね?

ドイツ表現主義と言えば…
先々月「カンディンスキーと青騎士展」に行ってきました。名前の通りですが、フランツ・マルクやアウグスト・マッケの作品もありましたよ。

投稿: けるとのしんわ | 2011年4月19日 (火) 22時18分

けるとのしんわさん、こんばんは。

「青騎士」、なつかしいですね〜。

学生時代にカンディンスキーは読みましたけど、よくわかりませんでした。

なぜか、あまり専攻とは関係のないクリムトやエゴンシーレの方に興味が向いてしまったことを思い出します。

あのとき感じられたものが、今は感じとることができなくなってしまいました。歳とともに人は変わるようです。

投稿: mushizuki | 2011年4月29日 (金) 21時58分

こんばんは。

カンディンスキーは私も読んでもわかりませんでしたが、絵画の方に興味を持つようになり、同じように専攻の影響からブリューゲル、オスカー・ココシュカの作品が現在でも好きだったりしています。

mushizukiさん、学生時代はエゴン・シーレに興味をお持ちだったのですね~、知りませんでした。
私は今でも好きな画家のひとりなんですけど、はじめて知ったのは30歳のころでしょうか。
絵画と出会ったのが遅いせいもあってか、人間の生々しさそのままの表現に驚きを持ったという、はじめて観た時の感性は今でも変わらないようです。

投稿: けるとのしんわ | 2011年5月11日 (水) 17時09分

けるとのしんわさん、こんばんは。

初めて観たときと変わらないとは! なんと純粋な。

当方は歳をとるとともに感覚も価値観も、鈍り変化する一方です。

大好きな映画『ブレードランナー』を繰り返し観るたびに、感じるものが違うので自分でも面食らっています。

投稿: mushizuki | 2011年5月15日 (日) 01時06分

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