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「諦め」で変わるもの

地震、津波という自然災害に加え、もうひとつの災害がクローズアップされている。それが原子炉の暴走だ。引き金は地震や津波であったにせよ、「起こりうることが起こった」としか言いようがない。原子力発電の負うべき巨大な潜在危険率。それを承知で私たちは便利で快適な生活を享受していた。今回のことで、今さらながらそのことに気づかされた。

(以上、前回からの引用)


自然を御することのできない存在に、はたして原子力を御することができるのか。そんなことを今さら論じるつもりは毛頭ない。原子力発電は結果的に私たちが望んだものだからだ。「それは違う! 私は望んでいない」という声が聞こえてきそうだが、「みんなが望んだもの」としか言いようがないと思う(話の腰を折るようだが、私自身は原子力発電には反対の立場である)。

誰もが便利で快適な生活を望んでいる。そのためには電力は欠かせないものとなった。火力や水力発電だけではみんなが望む快適な生活を実現できない。どうにかしてみんなの夢を叶えようと考え出されたのが原子力発電だったのではなかろうか。

そんな事の発端を忘れていたことに自分は気づいた。もっとも、原子力発電が取り沙汰されていた頃、自分はまだ子どもだったような気がするので選択権は持ち得なかったような気がする。

「目的のために手段は選ばない」。今となってはそんな常套句が当てはまるような安易な選択だったように思えてならない。ただし、ひっかかるのは数々の「安全神話」のもとに話が進められたような記憶が私の頭に残っている事。たった今、その神話は単なる作り話になってしまった。言い換えれば「神の上に自然がある」ということを改めて証明したのかもしれない。

原子力発電に至る経緯や特定の人たちの思惑を今さら白日の下に晒しても仕方がない事だろう。重要なのは原子力発電に踏み切る前に、選択と決断の時が幾度となくあったということ。

回りくどい言い方をしてしまった。要するに「便利で快適な生活を捨てる勇気」があったかどうかが問われているのだ。今からでも遅くはない。現在の素晴らしい生活をいったん諦めることができるかどうか。その最後の選択の時が来たのではないかと切に感じている。

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