遠くから呼ぶもの…富谷観音三重塔 彫刻そして絵馬・信仰の証

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しばらく前から続いている桜川市の富谷観音のお話です。今回で最終回にしたいと思います。

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今まで、国の重要文化財である柿葺きの三重塔の話ばかりでしたが、他にも注目したものがあったので記述します。それが本殿の正面にある龍の彫刻。


この龍はかなり精巧に彫られていて、さぞや名のある彫り師が手がけたのではないかと想像してしまいました。口と舌、髭、鱗、そして蛇腹の形状など、よくもこれほど手を抜かずに彫り上げるものだと、思わずため息が出ました。


龍は白く見えますが、所々に緑色をした部分があります。もともと緑で色褪せて白くなったのか、それとも緑の部分は苔なのか、どちらなのかはわかりません。


龍は天に昇る前は青龍で、珠を得て降りてくるときは黒龍に、そして齢を重ねると白龍になると聞いたことがあります。もし、彫刻の龍が白龍ならそうとう位の高い龍なのかもしれません。

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この本堂には複数の絵馬が奉納されています。お寺によっては絵馬堂という建物に飾っていることがあるようですが、富谷観音では本堂がそれを兼ねているようです。


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絵馬を見ると、屈強な武者が物の怪を退治していたり


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武者同士が戦っていたり


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天女が描かれていたり


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如来か菩薩か天女か判別つきませんが、ご来迎の図があったり


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龍と女と武者が描かれていたり…


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説話や伝説、昔話に因んだ絵なのでしょうか? いろいろなものが奉納されています。


絵馬というと、お寺に何かの願をかけて、それが成就したときにお礼として奉納されるようです。そのことを考えると、絵馬に描かれていることは掛けた願に因んだことが描かれているのかもしれません。


一言で表すと悪霊退散、仏の加護、戦勝祈願というようなものでしょうか。災いを退けてもらったお礼、敵に勝利したお礼、ご利益を受けたお礼、救いを差し伸べてもらったお礼など、絵馬からいろいろなことを想像するのが楽しいです。


とにかく、これだけの絵馬が奉納されているのですから、多くの人が信仰を寄せていたお寺なのだろうと想像がつきます。


もうひとつ余談ですが、同寺の仁王門にある像は修復中で見られませんでした。通りかかった人の話だと、かなり立派なものなのだということです。機会を見てまた訪れてみたいと思いました。


(撮影:2013.2.3/桜川市)

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遠くから呼ぶもの…富谷観音三重塔 塔は何を伝えるのか


前回からのつづき、桜川市の富谷観音の話です。

前回に記述した通り、三重塔は室町時代に再建されたと伝えられています。現存する塔が再建時のままとは思えませんし、各所に修繕の手が加えられていることでしょう。


よく見ると、組み物のいたるところに色の違う新しそうな木材が見て取れます。これは明らかに最近修繕されたような感じです。気になるのは、古さを感じさせる黒い木材です。こちらは果たして室町時代のものなのでしょうか?

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いずれにしても、きれいに修繕されていることは確かです。もう少し時が経てば、新しい木材も古びた色に変わって全体的には落ち着いた雰囲気になるのではないでしょうか。このような修繕をするのは宮大工の仕事なのでしょうけど、たいした腕だと思います。そのような技と匠が今後も継承されてほしいと切に願います。

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さて、塔の下層の部分に目をやると上層部とは雰囲気が違います。なんとなく色褪せた感じと古さが漂ってきます。特に目立つのが柱です。柱に使用されている木材はかなりの古さではないでしょうか。ひょっとすると、この柱は室町時代のものかも…と思ってしまいます。修繕が加えられているとはいえ、柱は取り替えるのがたいへんでしょう。継ぎはぎすることは可能かもしれませんが、この柱はそんな様子が見受けられません。


橋の欄干のような部分にある擬宝珠は、鉄製ではなく木材です。しかもちょっと変わった形をしているのが気になりました

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そうそう、柱が気になったので土台部分も見てみました。それぞれの柱は礎石の上に載っているだけです。気になる中心の柱は暗くてはっきりと見えませんでした。2年前の大震災で損傷・倒壊しなかったというのはすごいことだと改めて思いました。


(撮影:2013.2.3/桜川市)

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遠くから呼ぶもの…富谷観音三重塔 室町から平成へ

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前回からの続き、桜川市にある富谷観音のお話です。


富谷観音の三重塔は、説明書きに寛正六年(1465)に再建されたとあります。ということは、それ以前からこの地に建っていたということなのでしょう。この室町時代の塔は、関東以北では最古の建造物と言われているようです。塔の先端にある相輪宝珠には「多賀谷前下総守朝経」の刻銘があるとのこと。ほかにも文化財として貴重なものがあるそうです。


木造十一面観音菩薩坐像は平安時代のもので、この寺を開創した行基自ら彫ったものと伝えられているようです。

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多数の文化財の説明があるなか、気になったのは笠間城主藤原時朝が弘長三年(1263)に寄進した木造大日如来坐像です。鎌倉時代の作であるこの像は、現在山形県寒河江市にある慈恩寺の三重塔内に安置されているそうです。この二つの寺院にはどんなつながりがあるのでしょう? 


寒河江の慈恩寺は、富谷観音と同じく行基による創建のようですが、そのつながりだけで仏像が移されるとは思えません。宗派は、富谷観音が天台宗。慈恩寺は真言宗と天台宗の両宗兼学だそうです。宗派によるつながりなのかは定かではありません。両寺のつながりについては今後機会があったら調べてみようと思います。


(撮影:2013.2.3/桜川市)

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遠くから呼ぶもの…富谷観音三重塔

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茨城県の桜川市に富谷観音と呼ばれるお寺があります。桜川市は以前は岩瀬町、それより昔は笠間郡と呼ばれていました。


このお寺の正式名称は施無畏山宝樹院小山寺。天平七年(735)に聖武天皇の勅願により、行基が開創したと伝えられています。


もう20年近くも前のこと、仕事の関係でこのお寺に足を運んだことがありました。境内には三重塔があり、それを見たときに「茨城にも三重塔があるんだ〜」と意外に思ったものです。その当時は神社仏閣や歴史などにはほとんど興味がなく、ただ塔の前を通り過ぎただけでした。


その後も県内の寺社の塔をいくつか目にする機会があったのですが、そのたびになぜか富谷山の三重塔を思い出しました。神社仏閣には興味はなかったものの、素人なりに富谷山の三重塔に価値を感じていていたのだろうと思います。初めて見たときに、端正な姿、美しい組み物、全体のバランスの良さといった洗練された構造に驚いたことは今でもはっきりと覚えています。


最初の出会いから十数年経ったころでしょうか、「また見てみたい」という気持ちがわいてきました。特にここ数年は強く思っていました。そう思いながらもなかなか足を運べずにいたわけです。車ならわずか1時間程度の場所なのですが…


先日その願いを叶えるため桜川市に足を運びました。


久しぶりの対面。最初に見たときの印象通り、素晴らしい塔だと思いました。それにしても、茨城のこんな場所になぜこのような三重塔があるのでしょう。きっと何か理由があるはずです。


今回改めて塔を見て、いろんなことを感じました。もし、時間と余裕があったら次回報告したいと思います。

(撮影:2013.2.3/桜川市)

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藍の魔術師

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先日、寺院をめぐるツアーに行ってきました。訪れたのは栃木県大田原市にある雲巌寺です。今は大田原市になっていますが、以前は黒羽と呼ばれていました。茨城・栃木・福島にまたがる八溝山の近くにある臨済宗妙心寺派のお寺、それが雲巌寺です。


山林に囲まれた場所に、なぜこのような立派なお寺があるのかとても不思議です。なんでも、禅宗の四大道場の一つにも数えられる寺院だそうです。

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瓜鉄橋(かてっきょう)と名付けられた赤い橋を渡ると、立派な山門を仰ぎ見ることになります。その荘厳さから格の違いが感じられます。じつは以前に何度かきたことがあるのですが、この場所の空気感をもう一度肌で感じたい、山門の威容をまた見たいと願っていた次第であります。

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この日は益子町にも足を伸ばし、国の重要文化財にもなっている西明寺の三重塔を見てまいりました。全国各地に三重塔はありますが、銅板葺きの塔は珍しいそうです。気のせいかもしれませんが、一般的な三重塔よりも屋根の反りが強いような気がします。まるで羽ばたいて飛んで行くかのように見えるのは錯覚でしょうか?


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さて、この日のツアーのなかでひと際印象に残ったのが、二つの寺院を訪問する間に立ち寄った馬頭広重美術館の特別展「広重と東海道展」でした。


東海道五十三次の本物の版画を間近で見るのは初めてでした。


かの有名な「お茶漬けのり」のおまけについていたカードサイズの複写や美術の教科書、画集などでは見たことがあります。その印象が非常に強かったせいがあるのでしょうが、今回実物を見てかなりの衝撃を受けました。


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館内に入って最初の一枚を目にしたとき、まず驚いたのは色です。青でも赤でも黄色でも、その深い色に“ぐいっ”と胸をつかまれる感じです。重厚というような威圧的なものではなく、濃厚な色の世界に引きずり込まれるような不思議な力を感じました。


この色は油絵の絵の具、水彩画の絵の具では出せない色のような気がします。なんでこんな色が出せるのか考えてみました。そこで思いついたのが顔料です。これは鉱物の色なのだろうと勝手に解釈。念のために館内の学芸員さんに聞いてみたら、やっぱり顔料を使用しているとのことでした。これで胸のつかえがとれました。


鉱物の色って何か不思議な力を秘めているような気がします。というか、鉱物自体に力があるのかもしれません。

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ふと思ったのが、多くの女性が宝石に興味を示すのはこのことが理由なのではないかということ(たぶんはずれていると思います)。こんな妄想めいた考えに導いてしまうほど、鉱物の創り出す色は魅力的だということです。


やっぱり実物の版画は違う。一言で表せばその通りなのですが、この一言に至るまでに様々な思いが脳裏を駆け巡りました。ひとつには、印刷物と本物との歴然とした違い。色については両者の間には雲泥の差があります。このギャップを埋めるには顔料で印刷するしかないと思います。そうなると一冊何万円もする画集になってしまうのでしょうね。


色続きの話になります。版画を見ていて思ったのが色数の少なさです。ほんの数色であれほどの豊かな表現ができるのかと感心するほどです。特に広重の版画は青というか群青というか、深い藍色が特徴的です。多くの版画の上の部分にグラデーションをかけて帯になっている藍色は、画面をグッと押し付けて圧縮しているような効果があるのではないでしょうか。


変なたとえですが、作者の一念が空気のように漏れないようにする為に上から蓋をしているような感じです。試しに、眼前に指をかざして絵の上部を隠すと雰囲気が違う絵になります。なんというか“すかっ”と力が抜けていってしまうような絵に見えます。藍色の帯の効果はかなりのものではないでしょうか。


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さて、この藍色の使い方について興味深い話を学芸員さんから聞きました。この藍色は「ベロ藍」と呼ばれるそうです。当時広重が多用したことで、現在では彼のトレードマークにもなっているそうです。当時の版画に使われている顔料のほとんどは国産の顔料ですが、このベロ藍は輸入物だそうです。しかも比較的大量生産が可能だったらしく、値段も手頃で手に入りやすかったのかもしれません。


ベロ藍とはちょっと変な名前です。なんでベロなのか調べてみると、ベロとはベロリンのことだそうです。昔はドイツの首都ベルリンをベロリンと発音していたらしく、そこからベロ藍と呼ばれるようになったとのことでした。ベルリンで顔料製造を行っていたハインリッヒ・ディースバッハという人物が偶然この顔料を発見したということです。かつてドイツの一部はプロイセンとも呼ばれていました。よく耳にするプルシアンブルーという色とベロ藍は同じものだそうです。


このベロ藍を最初に使ったのは渓斎英泉と言われているようです。その後、葛飾北斎が使用し、広重も使うようになったとか(この件については、伊藤若冲が日本で最初に使った人物という記録もあるそうです)。


版画の研究者の間ではベロ藍と言えば広重という構図が出来上がっているそうですから、いかに作品に多用されたかがわかります。まさに広重は“藍の魔術師”だったのかもしれません。

このほかにも、学芸員さんから版画に関する興味深い話を聞かせていただきました。


簡単に言うと、版画は絵師・彫師・摺師がまさに三位一体となって作り上げるものだそうです。正確に言うとこれに版元(今で言う出版社)が絡んで四位一体となります。一番力があるのが版元で、絵師・彫師・摺師の選定はもちろん、どんな企画で出版するかも決定するそうです。


版画と言うと絵師ばかりが脚光を浴びますが、現存する素晴らしい作品の陰には他の人たちの見えない力が加わっていることも覚えておかなければならないと思いました。


ちなみに、原画は原版を作るときに彫られてしまうので跡形もなく消えてしまうそうです。原版を作る彫師ってさぞかし器用な人なんでしょうね。また、失敗が許されない緊張する作業なのだろうとも想像できます。


とにもかくにも、素晴らしい作品は奇跡とも呼べる不思議な縁が重なって生み出されたものなのだと実感しました。

※版画の写真は那珂川町馬頭広重美術館が、今回の特別展のために制作した図録です。

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なぜ、親子は恐山を目指すのか?

「恐山に行ってみた〜い!」


「よっしゃ、行ってみっか!」


そんな会話をした娘と父親は…


ゴールデンウィーク中のとある日の早朝・午前3時、薄暗いなか車のエンジンをかけて北へ向かいました。


茨城から秋田の角館〜田沢湖〜八幡平〜青森〜大間と各所に寄りながら、恐山に着いたのは翌朝の7時。


爆走と言うか、暴走と言うか、ある種のバカとしか言いようのない旅をしてきました。


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恐山、それは親子にとって未知の場所でありました。しかし、情報化社会と呼ばれる現代において、恐山に関する情報はいろんなところから入ってくるものです。その情報をもとに、自分のなかで勝手に恐山のイメージを作り上げていました。


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娘が恐山のイメージをどのように描いていたかは知りようがありませんが、私のイメージは今回の暴走旅行で大きな音を立てて崩れ去ってしまったのであります。

どのように崩れたかは説明すると長くなるので、今回書くのはやめておきます。というか、改めて書きたいと思います。


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今回はそのプロローグとして、旅のきっかけとなった恐山の写真の掲載に留めることにします。


心と時間、体力的な余裕があったら、次回から順を追って「暴走の行程」を紹介していきたいと思います。


(撮影:2012.5.6/青森県・恐山)

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弘前城、400年の歩き方

前回からのつづきです。

津軽藩初代藩主・津軽為信が1603年に築城を手がけ、二代信枚(のぶひら)が1611年に完成させた弘前城。鷹岡に築城されたことから、別名鷹岡城とも呼ばれるそうです。

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落成したときには五層五階の天守があったそうですが、1627年に落雷のために消失。以降200年近く天守のない城でした。その後、1810年に九代藩主寧親により三層三階の御三階櫓(天守)が建設されたということです。これが現在見られる天守であり、約200年の歴史を伝える建造物になっています。


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もともと南部氏に臣従していた大浦為信ですが、1590年に小田原征伐の際に豊臣秀吉より四万五千石の所領安堵の朱印状を賜り、大浦を津軽と改姓して津軽藩を創設したそうです。


1611年の築城から数えて400年となる弘前城。そんな歴史を耳にすると、城内を歩きながら目にする景色が味わい深いものになるから不思議です。


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城内の桜を愛でるのはもちろん、天守を仰ぎ見たり本丸から岩木山を眺めたりするのも楽しいものです。しかし、それだけではもったいないです。


弘前城には三の丸追手門、南内門、東門、北門と各方角に立派な門があります。どうせならこの門もご覧になることをおすすめします。


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門から城内に進むと、堀を越えて本丸に導く朱色の橋が渡されています。ここから見る景色もなかなか情緒があります。


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さらに欲張って、城の近隣も歩いちゃいましょう。城から少し離れたところから、外堀や岩木山を見るのもまた違った趣があっていいものです。


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すぐそばには「観光館」と呼ばれる建物があります。ここは少し高台になっていて、外堀と岩木山が一緒に眺められます。ここからだと岩木山がひと際大きく見えて迫力があります。


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観光館のそばには旧弘前市立図書館や旧東奥義塾外人教師館など、弘前の歴史を感じさせる建造物があります。どうせならこれらも見てきましょう。


さらに次回、番外編に続きます


(撮影:2012.4.30/青森県・弘前城)

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桜に浮かぶ弘前城、花に埋もれる岩木山

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通り過ぎた春を追いかけて北へ向かう…


晩春の東北へ出かけると特別な思いがこみ上げてきます。


若い頃、毎年のように出かけていた東北。ゴールデンウィークの恒例となっていた爆走ドライブが今では懐かしい思い出です。ドライブはその年ごとに行き先は違っていて、あるときは青森、またあるときには秋田、ときには岩手という具合。その時季に東北に出かけると、咲き始めたばかりの眩しい桜を見ることができたのを今でも鮮明に思い出します。


なかでも弘前城の桜は印象深いものでした。


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そして今春、懐かしい場所に仕事で再び訪れることになったのです。


爆走して東北各地をめぐることが目的だった若い頃と違い、今回は「観光地を訪れる」という明確な目標が科せられていました。仕事とは言いつつも、懐かしい弘前に足を運んだことで、20年以上も前の記憶をたぐり寄せることができました。


正直なところ、桜がきれいでたくさんの人がいたこと、天守が想像していたより小さかったことぐらいしか記憶に残っていなかった弘前城。今回の訪問では新たな発見がありました。


そのことについては次回に報告したいと思います。


(撮影:2012.4.30/青森県・弘前城)

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語りかける伊勢の松

前回の更新から一か月以上が過ぎてしまいました。突然、仕事が忙しくなりブログどころではなくなってしまい「しばらく更新はやめよう」と思いました。しかし、シリーズの途中でやめるのはなんとなく気持ち悪いので、とりあえず伊勢の鉄道旅行は完結させることにしました。もちろん、時間の余裕が出てくれば書き足していこうと考えています。


余談続きですが、体におかしな変調をきたしているので報告してみたいと思います。


ここ一か月くらい、平日は4〜5時間くらいしか寝ていません。最初は辛かったのですが、しばらくすると平気になってきました。ただし、朝だけは頭も体も自分のものではないような感覚に襲われます。この無重力状態のなかで数十分を過ごすのが快感にさえなってきました。


最近では0時過ぎぐらいに帰っても、「おっ、今日は早いなぁ」と思えるようになったくらいです。もう、これは狂っているとしか言いようがないですね。


自分だけが辛いわけではなく、世の中には同様の状況に置かれている人たちがいっぱいいると思います。そこで考えてみました。まず、そんな状態が長く続くと家族とのコミュニケーションがなくなります。こうなると父親の存在は「金を家に持ってくる」ということでしか証明できなくなるような気がします。これって家族崩壊じゃないでしょうか。もっと広い視野で捉えれば「国家崩壊」だと思います。言い過ぎでしょうかねぇ?


日本経済がどうのこうの、年金制度が破綻しているだの、そんなこと以前に重大な危機が我が国を襲い、蝕んでいるような気がしてならないです。


「豊かさと引き換えに私たちは大切なものを失ってきた」な〜んてことは、事あるごとに聞かされてきました。それは現代社会への警鐘のような決め台詞でもあったはずです。


しかし、もっと深刻な問題がありました。それは、失っていることにさえ気づかないことです。いや、気づいている人は実は多いような気もします。多くの人は、豊かさを手にするには多少の犠牲は必要と割り切っているのかもしれません。


つまりは、割り切らざるを得ないのが問題なのかもしれません。もう私たちは豊かな暮らしという妄想から逃れられなくなっているのかもしれませんよ〜


この「逃れ難き妄想」の件は、昨年の東日本大震災のしばらくあとに強く感じました。じつはあの出来事をきっかけに、多くの人の価値観が大きく転換するだろうと予想しました。しかし、社会は「元通りの生活」を求めて必死に努力しはじめました。今ではなんとか元通りに近い状態まで復元できた感じでしょうか。結果としては、目に消える形で価値観の転換は起こらなかったみたいです。


食料、エネルギー、物流、金融、経済…それは止められない歯車。止まってしまったら一気に分解してしまう社会構造が、いつの間にか出来上がってしまったのかもしれません。


さて、こんなことを書き続けていると睡眠不足で頭がおかしくなったと思われるかもしれません。ひょっとするとその通りかもしれませんが、伊勢の話題に戻りたいと思います。


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3月11日。伊勢の朝はとても爽やかでした。宿泊したビジネスホテル「タウンホテルいせ」から見た伊勢市駅。


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参道の方から伊勢市駅を見ると…
改装工事中でした。


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振り返って、伊勢神宮外宮方面にカメラを向けると…参道と言われればそんな感じがする道が伸びています。


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途中には歴史を感じさせる旅館がありました。


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10分も歩くと外宮に到着。伊勢参りは外宮から内宮へ進むのが順序だそうなので、決まりを守ることにしました。


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伊勢神宮に来てまず気になったのは鳥居の形。なんか変だなぁと感じていたのですが、茨城にある鳥居とはどこか違います。


鳥居の頭にあたる横の木は、笠木と島木と呼ばれるもので構成されているそうです。その下ある横の板というか梁のようなものは「貫」と呼ばれるようです。一般的にはこの「貫」が、鳥居を支える二本の柱からはみ出ているんですが、伊勢神宮の鳥居は「貫」が柱の間に収まっています。これって、伊勢形式の鳥居ということでしょうか。


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さて、こちらは内宮の入口です。最初に目に飛び込んできたのが松の大木でした。この枝振りを見ただけで、ただ者ではないと思わせる存在感のある松です。まるで何かを語りかけてくるような雰囲気。この松を見ただけで半ば満足してしまった自分がいました。


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とりあえず、神宮内を散策しましたけど一番印象に残ったのは入口に聳える松の大木でした。


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厳かな空気が漂い、無色透明の時間が流れている…とでもいいましょうか、特別な空間のように感じてしまいます。


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こちらは正宮(しょうぐう)。ここから先は撮影禁止と書かれていたので、その手前から撮影しました。正宮とは本宮のことらしいです。お寺で言うと本殿ってことなんでしょうか。


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朝が早かったので、伊勢神宮の通りのお土産屋さんはまだ開いていませんでした。


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そんななかで店を開けていたのが、有名な「赤福」の本店でした。


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店のなかや縁側には休憩所があります。縁側で赤福をいただきながらお茶を飲む人の姿が見えます。私たちものんびりと朝のひとときを過ごしたかったのですが、フェリーに乗る都合があったので我慢です。


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伊勢神宮内宮からバスに乗って…ひとまず、五十鈴川駅に向かいます。


次回へつづきます。


(撮影:2012.3.11/伊勢市)

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松本城の背後にある幻の城

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前回からの続き、「そこそこの旅、ぎりぎりの旅」の第二部です。各駅停車で行く松本〜名古屋〜伊勢 一泊二日の行程を時間とともに追ってみます。



朝5時に常磐線下りの始発に飛び乗り、東京を経由して中央本線で神奈川、山梨を通過して長野へ。長野から岐阜、愛知、そして三重へ向かいました。往復だとどれくらいになるのでしょうか? 1000キロまではいかないかもしれませんが、一泊二日で7〜800キロは移動したと思います。


初日の朝はみぞれ混じりの雨。午前4時半頃に家を出て、冷たい雨に打たれながら駅に向かいました。改札口でS君と落ち合い始発に乗り込みます。車内はがらがらかと思いきや、土曜日のためかそれなりに乗客がいました。


途中で夜が明けてうっすらと明るくなるも、どんよりとした雲に覆われた空は、とても旅立ちの朝を祝福してくれるようなものではありません。しかし、そんな重苦しい気持ちを引きずりながらも、非日常的な時間が始まったことに期待感が徐々に膨らみます。


7時7分。雪がちらつく新宿から中央本線に乗り込み、8時1分に高尾で甲府行きの電車に乗り換えます。その頃になると、ようやく東京の雑踏を抜けて落ち着きを取り戻しました。


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車内に貼ってある路線図は、見慣れた常磐線のものとはまったく違うものです。そんな些細なことが新鮮で刺激的でした。


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途中、山梨の塩山で特急列車の待ち合わせがあったので、車外に出て写真を数枚撮影。ちょうど相模湖を過ぎたあたりでしょうか、山梨に入ってから雪が強く降り始めましたが、塩山あたりには雪がありませんでした。


塩山を発ったあと、甲府で再び乗り換え一気に松本へ向かいます。途中は雪の積もった冬景色。小淵沢あたりは特に積雪量が多かったように思います。


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松本駅前です。地方都市らしい景観に親しみを感じます。我が茨城県の県庁所在地・水戸に似ているような気がします。


さっそく松本城に向かいますが、路線バスを乗り間違えてあらぬ方向に向かってしまいました。時間がないので、降車後すぐにタクシーをつかまえて松本城へ。ものの10分もしないうちに到着となりました。


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初めて見る松本城。漆黒の板壁が、雪を被って一段と鮮やかに見えます。国宝ということもあって存在感が際立っています。しかし、私にとっての第一印象は意外にも小さな城というものでした。


この松本城、以前は深志城と呼ばれていたそうです。現在の松本城は、深志城を大修築したものであるので、以前の城とはだいぶ違っているようです。そもそも深志城は、戦国時代の信濃守護・小笠原氏の本城(林城)を守る支城の一つに過ぎなかったといいます。典型的な山城で大規模だった林城に対して、深志城は平城であり支城という理由もあってか小規模なものだったのだと想像できます。そんな話を耳にすると、林城を見たくなりますが、残念ながら今は遺構しか残っていないそうです。ちなみに林城址は松本駅から徒歩1時間ぐらいの場所(松本市里山辺)にあるそうです。


松本城は地元の人たちからは烏城とも呼ばれているそうですが、黒い容姿は確かにカラスを連想させます。黒い城は戦国時代には珍しくなかったようですが、時代を経て白塗りの城が主流になっていったといいます。


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この黒を見ていて、ふと思ったことがあります。黒は熱をよく吸収するので、冬は少しでも太陽熱を吸収して暖かくするのに効果があったのかもしれないということ。屋根の雪を融かすまで効果があったかは疑わしいですが、多少は融雪にも効果があったのかもしれないと勝手な想像をしました。


本心を言うと城の内部までゆっくり見たかったのですが、時間の都合上、外からの見学のみで城を後にしました。歩き始めると松本駅は意外にも近く、バスやタクシーを使わなくてもいいと思えるほどでした。


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今回の松本城訪問で、旅には思い切った割り切りが必要だということを実感しました。本来ならのんびり城を見た後に市街を散策して2〜3時間は滞在したいところ。しかし、次の奈良井宿に行くにはどうしても1時間しかとれません。というわけで、松本城の天守内部の見学は次回にすることにしました。おかげでまた松本に来なければならなくなりました。いつ来られるかわかりませんが、楽しみを取っておくというのも旅土産の一つなのかもしれないと自分に言い聞かせた次第です。

次回へつづきます。

(撮影:2012.3.10)

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